Share

第16話 妹は泣けば許されると思っていた

last update publish date: 2026-08-23 21:17:48

リリアナ・ヴァレンシュタインは、泣き方を知っていた。

 いつ、目を伏せればいいのか。

 いつ、声を震わせればいいのか。

 いつ、唇を噛めば、周囲が「可哀想に」と思ってくれるのか。

 それは彼女が意識して身につけた技術ではなかった。

 幼い頃から、そうすれば世界が柔らかくなったのだ。

 髪飾りが欲しいと泣けば、姉が譲ってくれた。

 家庭教師の時間がつらいと泣けば、母が「リリアナにはまだ早いわ」と抱きしめてくれた。

 父に叱られそうになると涙ぐめば、父はため息をつきながらも「仕方のない子だ」と許してくれた。

 姉と同じものが欲しい。

 姉よりも見てほしい。

 姉ばかり褒められるのは嫌。

 そうした感情に、はっきりした名前をつけたことはなかった。

 ただ、泣けば誰かが来てくれた。

 泣けば、姉が黙った。

 泣けば、母が味
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜   第88話 守る空白と、埋めるべき空白

    空白は、敵。 王宮では、いつの間にかそんな空気が生まれ始めていた。 それも無理はなかった。 王妃基金の不正は、空欄から始まった。 誰が確認したのか分からない欄。 誰が受け取ったのか曖昧な欄。 いつ支出されたのか不明な欄。 父グレゴールが確認しなかった欄。 夫人会が都合よく見ないままにした欄。 空白が不正を隠した。 空白が責任を逃がした。 空白が弱い人の寒さや痛みを、帳簿の外へ押しやった。 だから、王宮の事務方が「空欄をなくせ」と言い始めるのは自然な流れだった。 だが、自然な流れが正しいとは限らない。 その日、北翼の小会議室に届いた一枚の通達案が、まさにその危うさを示していた。 差出人は、王都登録局の補佐官バスティアン。 題は簡潔だった。 ――王妃基金関連仮登録書類における空欄削減について。 リリアナは、題名を読んだ瞬間、嫌な予感がした。「空欄削減……」 エレノアも表情を引き締めた。 イザーク法務官補佐が封を切り、文面を読み上げる。「王妃基金再建に伴い、各種支援記録および仮登録書類の正確性向上のため、未記入欄の削減を進める。特に母子仮登録における父名欄、住所欄、身元保証欄について、原則として七日以内に記入を完了すること。記入不能の場合は、不能理由を詳細に記載すること」 そこで、リリアナは思わず顔を上げた。「七日以内?」 イザークは続きを読んだ。「父名欄については、父不明、父死亡、父名非公開、婚外出生等の分類を行い、登録局への後日照会に備えること。空欄のままの提出は、原則として差し戻し対象とする」 部屋が静まり返った。 父名欄。

  • 妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜   第87話 雫の仮名と、父欄の空白

    雫、という仮名が置かれた翌朝。 王妃基金の北翼に届いた報告書には、いつもより一枚多い紙が添えられていた。 仮登録紙の写しだった。 母仮名、雨音。 子仮名、雫。 性別、女児。 出生日時、前々夜。 体温、やや低めから安定へ。 保温布使用。 授乳、少量。 母の食事、四口を基準。 そこまでは、リリアナにも分かった。 けれど、次の欄で手が止まった。 ――父名。 空白だった。 ただの空欄。 線が一本、白く残っている。 しかし、その空白は妙に大きく見えた。 リリアナはしばらく黙っていた。 隣で報告書を読んでいたエレノアも、その欄に視線を落としたまま動かない。 父名欄。 これまでにも、空欄は何度も見てきた。 王妃基金の空欄。 公爵家の空欄。 父グレゴールが確認しなかった空欄。 リリアナが知らされなかった空欄。 ノルが姓を出したくない空欄。 けれど、赤子の父欄の空白は、それらとは違う痛みを持っていた。「これは……どうするのですか」 リリアナが尋ねると、フィオナ司祭は静かに答えた。「今は、空白のままにします」「空白でいいのですか?」「よい、というより、今はそれ以外にしてはいけません」 してはいけない。 その言い方は強かった。 リリアナは顔を上げる。「父親を聞かないということ?」「今は聞きません」「でも、登録に必要なのでは?」「場合によります。正式な出生登録では、父

  • 妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜   第86話 雨音、四口の理由

    雨音が四口食べた理由は、粥の味だけではなかった。 そのことが分かったのは、翌日の昼前だった。 聖リディア産婆院から届いた報告書には、いつものように食事量、体温、授乳、夜間灯油の使用量が並んでいた。 ――雨音、朝四口。 ――湯気を逃がした粥。吐き戻しなし。 ――本人、五口目で手を止める。 ――理由を問うと、「四口でいい」と返答。 ――子、仮名未定。体温やや低め。保温布調整。 ――夜明け、朝半椀。灯り、授乳少量。体温安定。 リリアナは、そこを二度読んだ。「四口でいい……」 昨日は、三口から四口へ増えたことを喜んだ。 けれど今日は、五口目で止まった。 しかも、気分が悪くなったからではない。 痛いからでも、眠いからでもない。 本人が「四口でいい」と言った。 エレノアも報告書を見ていた。「気になるわね」「はい。でも、聞きすぎるのもよくないですよね」「ええ。理由欄は、相手の心を無理に掘るためのものではないわ」 リリアナは、その言葉をすぐに手帳へ書いた。 ――理由欄は、心を無理に掘るためのものではない。 食べられなかった理由を書く。 それは、次の支援につなげるためだ。 けれど、理由を聞く側が間違えれば、尋問になる。 雨音が四口で止めた理由。 知りたい。 けれど、知りたいから聞くのではない。 次の食事をどう出すかに必要なら、聞く。 本人が話せる範囲で。 そこを間違えてはいけない。

  • 妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜   第85話 基準椀と、母たちの食事表

    基準椀が届いた翌日、聖リディア産婆院の台所には、小さな混乱が起きた。 椀が割れたわけではない。 粥が焦げたわけでもない。 夜間灯油が不足したわけでもない。 問題は、壁に貼られた一枚の表だった。 ――産後食事表。 そこには、母親ごとの仮名、朝・昼・夕の粥の量、吐き戻しの有無、体調、次に見る時間が書かれている。 夜明け。 朝、半椀。 昼、半椀より少し多く。 夕、三分の一。 吐き戻しなし。 疲労あり。 次回、朝。 そこまではよかった。 問題は、その下だった。 ――雨音。 朝、数口。 昼、拒否。 夕、未確認。 雨音というのは、別室にいる母親の仮名だった。 彼女もまた本名を出したくないと言い、前日に仮名記録の説明文を読んだ一人である。 雨の夜に産婆院へ来たから、雨音。 本人がそう言った。 年は夜明けより少し上に見えるが、目の下が深く、いつも耳を澄ませるように周囲を警戒している。 その雨音が、昼の粥を拒んだ。 理由は、表だった。「食べられないのを、みんなに見られるのは嫌」 エダ産婆からの報告には、そうあった。 リリアナは北翼でそれを読んで、しばらく黙った。 基準椀。 食事表。 半椀。 記録。 良い仕組みだと思っていた。 いや、良い仕組みではあるのだろう。 でも、壁に貼れば誰かに見える。 夜明けが半椀食べたことは前進だった。 だが、雨音にとっては、自分が数口しか食べられないことを突きつ

  • 妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜   第84話 夜明け、粥を半椀食べる

    夜明けが粥を半椀食べた。 その報告が王妃基金の北翼へ届いた時、リリアナは最初、その一文の重さが分からなかった。 ――母仮名「夜明け」、朝の粥を半椀摂取。 ――吐き戻しなし。 ――子仮名「灯り」、授乳少量。体温安定。 ――夜間灯油使用、二回。煙なし。 ――保温布ずれなし。 半椀。 たったそれだけ。 けれど、フィオナ司祭はその報告を読んで、静かに息を吐いた。「よかった」 その声が、思っていたより深かった。 リリアナは顔を上げる。「半椀って、そんなに大事なのですか?」「大事です」 フィオナ司祭は頷いた。「出産の後、食べられない母親は少なくありません。体力が戻らなければ、赤子を抱くことも、乳を与えることも、考えることも難しくなります」「考えることも?」「はい。名前をどうするか。どこへ行くか。誰に助けを求めるか。そういう判断にも、体力が要ります」 リリアナは、手帳を開いた。 ――食べることは、考える力につながる。 書きながら、少し胸が痛んだ。 名前の記録。 灯油。 保温布。 煮沸鍋。 どれも必要だ。 でも、その前に粥を飲み込めるかどうかがある。 支援は、紙の上だけでは進まない。 胃の中にも、進み具合がある。 エレノアは報告書を手に取り、確認した。「粥の材料は、何日分残っていますか」 ヘンリクが別紙をめくる。「緊急支援分として三日分です。ただし

  • 妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜   第83話 産婆院の夜間灯油

    聖リディア産婆院へ夜間灯油が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。 夜ではない。 そこを、エレノアはあえて確認した。 夜間灯油という名だからといって、夜に運べばいいわけではない。 北東区の細い道は、日が落ちると足元が悪い。 灯油壺を積んだ馬車が石畳の欠けに車輪を取られれば、割れる危険がある。 割れれば、油は無駄になるだけでなく、火の近い場所では危険にもなる。 だから、昼に届ける。 夜に使うものほど、昼のうちに整える。 それは、王妃基金がこの数日で学んだ新しい原則だった。 北翼の小会議室では、朝から夜間灯油の支援方法について話し合いが行われていた。 リリアナは、机の上に置かれた小さな油壺の見本をじっと見つめている。 茶色い陶器の壺。 口は細く、栓には封印紐が付けられている。 派手さはない。 けれど、これが夜の産婆院で赤子の呼吸を見る灯りになる。「灯油は、ただ渡せばいいものではありません」 薬師マティアスが言った。「火を扱います。赤子や産後の母親がいる場所では、置き場所、灯芯、換気、消火用の水まで確認が必要です」 リリアナは、すぐに手帳を開いた。「灯油、灯芯、換気、消火用の水……」 書きながら、少し顔をしかめる。「灯りを増やすと、危険も増えるんですね」「はい」 マティアスは頷いた。「暗いと体調確認が遅れます。しかし、明るくするだけでは火事の危険が出ます」「両方見る」「そうです」 リリアナは深く息を吐いた。 最近、本当に何も一つでは済まない。 布を届ければ洗濯が必要になる。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status