LOGINリリアナ・ヴァレンシュタインは、泣き方を知っていた。
いつ、目を伏せればいいのか。 いつ、声を震わせればいいのか。 いつ、唇を噛めば、周囲が「可哀想に」と思ってくれるのか。 それは彼女が意識して身につけた技術ではなかった。 幼い頃から、そうすれば世界が柔らかくなったのだ。 髪飾りが欲しいと泣けば、姉が譲ってくれた。 家庭教師の時間がつらいと泣けば、母が「リリアナにはまだ早いわ」と抱きしめてくれた。 父に叱られそうになると涙ぐめば、父はため息をつきながらも「仕方のない子だ」と許してくれた。 姉と同じものが欲しい。 姉よりも見てほしい。 姉ばかり褒められるのは嫌。 そうした感情に、はっきりした名前をつけたことはなかった。 ただ、泣けば誰かが来てくれた。 泣けば、姉が黙った。 泣けば、母が味空白は、敵。 王宮では、いつの間にかそんな空気が生まれ始めていた。 それも無理はなかった。 王妃基金の不正は、空欄から始まった。 誰が確認したのか分からない欄。 誰が受け取ったのか曖昧な欄。 いつ支出されたのか不明な欄。 父グレゴールが確認しなかった欄。 夫人会が都合よく見ないままにした欄。 空白が不正を隠した。 空白が責任を逃がした。 空白が弱い人の寒さや痛みを、帳簿の外へ押しやった。 だから、王宮の事務方が「空欄をなくせ」と言い始めるのは自然な流れだった。 だが、自然な流れが正しいとは限らない。 その日、北翼の小会議室に届いた一枚の通達案が、まさにその危うさを示していた。 差出人は、王都登録局の補佐官バスティアン。 題は簡潔だった。 ――王妃基金関連仮登録書類における空欄削減について。 リリアナは、題名を読んだ瞬間、嫌な予感がした。「空欄削減……」 エレノアも表情を引き締めた。 イザーク法務官補佐が封を切り、文面を読み上げる。「王妃基金再建に伴い、各種支援記録および仮登録書類の正確性向上のため、未記入欄の削減を進める。特に母子仮登録における父名欄、住所欄、身元保証欄について、原則として七日以内に記入を完了すること。記入不能の場合は、不能理由を詳細に記載すること」 そこで、リリアナは思わず顔を上げた。「七日以内?」 イザークは続きを読んだ。「父名欄については、父不明、父死亡、父名非公開、婚外出生等の分類を行い、登録局への後日照会に備えること。空欄のままの提出は、原則として差し戻し対象とする」 部屋が静まり返った。 父名欄。
雫、という仮名が置かれた翌朝。 王妃基金の北翼に届いた報告書には、いつもより一枚多い紙が添えられていた。 仮登録紙の写しだった。 母仮名、雨音。 子仮名、雫。 性別、女児。 出生日時、前々夜。 体温、やや低めから安定へ。 保温布使用。 授乳、少量。 母の食事、四口を基準。 そこまでは、リリアナにも分かった。 けれど、次の欄で手が止まった。 ――父名。 空白だった。 ただの空欄。 線が一本、白く残っている。 しかし、その空白は妙に大きく見えた。 リリアナはしばらく黙っていた。 隣で報告書を読んでいたエレノアも、その欄に視線を落としたまま動かない。 父名欄。 これまでにも、空欄は何度も見てきた。 王妃基金の空欄。 公爵家の空欄。 父グレゴールが確認しなかった空欄。 リリアナが知らされなかった空欄。 ノルが姓を出したくない空欄。 けれど、赤子の父欄の空白は、それらとは違う痛みを持っていた。「これは……どうするのですか」 リリアナが尋ねると、フィオナ司祭は静かに答えた。「今は、空白のままにします」「空白でいいのですか?」「よい、というより、今はそれ以外にしてはいけません」 してはいけない。 その言い方は強かった。 リリアナは顔を上げる。「父親を聞かないということ?」「今は聞きません」「でも、登録に必要なのでは?」「場合によります。正式な出生登録では、父
雨音が四口食べた理由は、粥の味だけではなかった。 そのことが分かったのは、翌日の昼前だった。 聖リディア産婆院から届いた報告書には、いつものように食事量、体温、授乳、夜間灯油の使用量が並んでいた。 ――雨音、朝四口。 ――湯気を逃がした粥。吐き戻しなし。 ――本人、五口目で手を止める。 ――理由を問うと、「四口でいい」と返答。 ――子、仮名未定。体温やや低め。保温布調整。 ――夜明け、朝半椀。灯り、授乳少量。体温安定。 リリアナは、そこを二度読んだ。「四口でいい……」 昨日は、三口から四口へ増えたことを喜んだ。 けれど今日は、五口目で止まった。 しかも、気分が悪くなったからではない。 痛いからでも、眠いからでもない。 本人が「四口でいい」と言った。 エレノアも報告書を見ていた。「気になるわね」「はい。でも、聞きすぎるのもよくないですよね」「ええ。理由欄は、相手の心を無理に掘るためのものではないわ」 リリアナは、その言葉をすぐに手帳へ書いた。 ――理由欄は、心を無理に掘るためのものではない。 食べられなかった理由を書く。 それは、次の支援につなげるためだ。 けれど、理由を聞く側が間違えれば、尋問になる。 雨音が四口で止めた理由。 知りたい。 けれど、知りたいから聞くのではない。 次の食事をどう出すかに必要なら、聞く。 本人が話せる範囲で。 そこを間違えてはいけない。
基準椀が届いた翌日、聖リディア産婆院の台所には、小さな混乱が起きた。 椀が割れたわけではない。 粥が焦げたわけでもない。 夜間灯油が不足したわけでもない。 問題は、壁に貼られた一枚の表だった。 ――産後食事表。 そこには、母親ごとの仮名、朝・昼・夕の粥の量、吐き戻しの有無、体調、次に見る時間が書かれている。 夜明け。 朝、半椀。 昼、半椀より少し多く。 夕、三分の一。 吐き戻しなし。 疲労あり。 次回、朝。 そこまではよかった。 問題は、その下だった。 ――雨音。 朝、数口。 昼、拒否。 夕、未確認。 雨音というのは、別室にいる母親の仮名だった。 彼女もまた本名を出したくないと言い、前日に仮名記録の説明文を読んだ一人である。 雨の夜に産婆院へ来たから、雨音。 本人がそう言った。 年は夜明けより少し上に見えるが、目の下が深く、いつも耳を澄ませるように周囲を警戒している。 その雨音が、昼の粥を拒んだ。 理由は、表だった。「食べられないのを、みんなに見られるのは嫌」 エダ産婆からの報告には、そうあった。 リリアナは北翼でそれを読んで、しばらく黙った。 基準椀。 食事表。 半椀。 記録。 良い仕組みだと思っていた。 いや、良い仕組みではあるのだろう。 でも、壁に貼れば誰かに見える。 夜明けが半椀食べたことは前進だった。 だが、雨音にとっては、自分が数口しか食べられないことを突きつ
夜明けが粥を半椀食べた。 その報告が王妃基金の北翼へ届いた時、リリアナは最初、その一文の重さが分からなかった。 ――母仮名「夜明け」、朝の粥を半椀摂取。 ――吐き戻しなし。 ――子仮名「灯り」、授乳少量。体温安定。 ――夜間灯油使用、二回。煙なし。 ――保温布ずれなし。 半椀。 たったそれだけ。 けれど、フィオナ司祭はその報告を読んで、静かに息を吐いた。「よかった」 その声が、思っていたより深かった。 リリアナは顔を上げる。「半椀って、そんなに大事なのですか?」「大事です」 フィオナ司祭は頷いた。「出産の後、食べられない母親は少なくありません。体力が戻らなければ、赤子を抱くことも、乳を与えることも、考えることも難しくなります」「考えることも?」「はい。名前をどうするか。どこへ行くか。誰に助けを求めるか。そういう判断にも、体力が要ります」 リリアナは、手帳を開いた。 ――食べることは、考える力につながる。 書きながら、少し胸が痛んだ。 名前の記録。 灯油。 保温布。 煮沸鍋。 どれも必要だ。 でも、その前に粥を飲み込めるかどうかがある。 支援は、紙の上だけでは進まない。 胃の中にも、進み具合がある。 エレノアは報告書を手に取り、確認した。「粥の材料は、何日分残っていますか」 ヘンリクが別紙をめくる。「緊急支援分として三日分です。ただし
聖リディア産婆院へ夜間灯油が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。 夜ではない。 そこを、エレノアはあえて確認した。 夜間灯油という名だからといって、夜に運べばいいわけではない。 北東区の細い道は、日が落ちると足元が悪い。 灯油壺を積んだ馬車が石畳の欠けに車輪を取られれば、割れる危険がある。 割れれば、油は無駄になるだけでなく、火の近い場所では危険にもなる。 だから、昼に届ける。 夜に使うものほど、昼のうちに整える。 それは、王妃基金がこの数日で学んだ新しい原則だった。 北翼の小会議室では、朝から夜間灯油の支援方法について話し合いが行われていた。 リリアナは、机の上に置かれた小さな油壺の見本をじっと見つめている。 茶色い陶器の壺。 口は細く、栓には封印紐が付けられている。 派手さはない。 けれど、これが夜の産婆院で赤子の呼吸を見る灯りになる。「灯油は、ただ渡せばいいものではありません」 薬師マティアスが言った。「火を扱います。赤子や産後の母親がいる場所では、置き場所、灯芯、換気、消火用の水まで確認が必要です」 リリアナは、すぐに手帳を開いた。「灯油、灯芯、換気、消火用の水……」 書きながら、少し顔をしかめる。「灯りを増やすと、危険も増えるんですね」「はい」 マティアスは頷いた。「暗いと体調確認が遅れます。しかし、明るくするだけでは火事の危険が出ます」「両方見る」「そうです」 リリアナは深く息を吐いた。 最近、本当に何も一つでは済まない。 布を届ければ洗濯が必要になる。







